施設の紹介
旧東田川郡役所(県指定有形文化財)
木造平屋建、ロ字型の平面で中央に中庭を設けた純和風の造りで明治20年に再建。西洋建築から得た技法を伝統的和風建築と調和させています。前身の郡役所の建築年代は不明ですが、明治11年に区務所として建築され、同年10月の郡画制度後に郡役所に転用、増築が加えられましたが、明治19年火災により焼失。地下より焦土並びに焼けた軒瓦が出土していることから、現在の郡役所は焼失した郡役所とほぼ同位置に再建されたと推測されます。大正15(1926)年の郡制廃止後、旧藤島町役場として昭和59年(1984)年まで利用されていました。
棟梁は当時庄内では第一人者といわれた高橋兼吉。彼は山居倉庫(酒田市)、西田川郡役所(鶴岡市)、善宝寺五重塔(鶴岡市)など全国に広く知られている建物を手がけました。
木造平屋建 | 口型平面中庭あり |
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軒高 | 4,545m |
建築面積 | 512.3平方メートル |
文化財指定年月日 | 昭和63年(1988)4月12日 |
展示物紹介
現在に繋がる東田川郡の功績
明治11年(1878)、藤島に郡役所がおかれました。山形県令は鬼県令と呼ばれた三島通庸、初代郡長は新潟県出身木村順蔵でした。 以来、茨城、群馬、滋賀、福島、山形県士族出身の郡長がおおよそ3~5年の任期で就任。
明治44年(1911)、12代郡長の関原弥里が梵字川を開発し水力発電所を建設。電力で灌漑用水を揚水し郡内一円に配水。余った電気は郡内に配電。公益の電気事業として発展しました。
「乾田馬耕と島野嘉作」(庄内の乾田馬耕の先駆者)
かつての水田は何百年来湿田のままで、その耕起は3本鍬(備中鍬)を用い一株々々を起こすという重労働でした。
明治24年、東田川郡長 相良守典は乾田馬耕を実施しないと百年の悔いを残すと力説し、福岡県勧業試験場の島野嘉作を東田川郡の稲作改良教師として招聘しました。はじめ農民は南国方式として反対しましたが、次第に人々の間で認められ馬耕の普及率が明治40年には県全体の94%を占めました。収量も著しく増加し農業の画期的な進歩をもたらしました。島野は明治36年の任を終えるまで一度も福岡に帰郷することなく、稲作改良法・選種法(塩水選)などに尽力しました。明治36年、功績を讃えた碑を建立。碑は敷地内にあります。
焼失前の郡役所の模型
(郡役所入り口に常設展示)
大正2年製作「庄内三郡地図」
東田川郡役所は明治19(1886)年4月に火災で焼失、翌年5月に再建、現在の和風建築となりました。焼失前の明治14年、明治天皇が東北巡見の際立ち寄られた歴史があります。高橋兼吉とその娘婿、巌太郎の設計。
東田川郡役所、西田川郡役所、飽海郡役所の3つが明示された、大きな彩色掛軸です。羽越線は未開通、また鶴岡町・酒田町となっており時代の移り変わりを見る思いです。
くらしを支えた藁文化
しめ縄や奉納わらじなど、現代に残るわら製品は大変少なくなりました。
昔の生活を支えたわら製品は、ものを大事にする心・稲わらを余すことなく使う知恵と技術の結晶です。
添川両所神社獅子
藤島地域は藤の里・獅子の里と知られています。当館内に等身大の獅子が展示されています。
藤島地域に残る獅子衣装(獅子の幕)の模様は巴・源氏車・波・千鳥を白く抜いた紺色の染物。その配置や形に各地区の違いがあります。幕抑えと呼ばれる布製の飾り物が実に愛らしい……。五穀豊穣の願いが込められたものでしょうが、野菜やうさぎ、亀など、荒々しい獅子に一見親しみを感じます。
発明家 齋藤外市
藤島が生んだ偉大な発明家 齋藤外市は、農家の長男として生まれ、一度は農業に従事するも「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ」と信念を貫き通し、独学で日夜発明工夫に没頭。多くの発明を残しました。
主に軍用機器と織物機械の発明に取り組み、7年かけて発明した日本初の電力を用いた“齋外式力織機”は全国的に普及し明治42年には国内使用力織機の5割を占めました。織機の研究をする一方で、25歳の時には陸軍に軽気球を、海軍に潜航艇を発明、献納。
明治45年には“齋外式飛行機”(※1)を発明。その実験飛行が赤川河川敷で行われました。